いや、書かねばならないわけではない。誰もあれについて書けよ、なんて言ってない。むしろ書いて欲しくなんてないかもしれない。だから書かねば、というのは自分の事情だ。
なんでそう思い込んでいるのだろう。人は知らないうちに、あれこれ思い込んでるもんだ。そういう生き物なのだから仕方が無い。
*
例の件とはなにか。
それは道に迷った件である。
はっきり言って、この旅行中、ずいぶん私達は道に迷った。
私達、と書くのに抵抗を感じるのは、私はこの旅においてはあくまでもゲストであり、私をいろんな所に連れて行ってくれるのは、この旅を企画したポテトだと固く信じているからだ。
ポテトはサンフランシスコを詳細に調べ上げており、完全にまかせてもいいはずだから、迷ったのはポテトなのであり、あれが迷ったのではないとするならそれはポテトの遊び心である。
そしてそんなポテトの奇想天外な遊び心によって、私達は変なバスに乗ったり変な地下鉄に乗ったり変な土地に着いたり乗ってたタクシーがパンクしたりして実に楽しかった。
というわけで、どんなに道に迷っても、みんなと一緒ならそれは楽しい冒険なのだ。
ポテトの才気溢れる旅の演出は、それをおおいに教えてくれた。
だから私が書かねば、とわざわざ腹をくくっているということは、例の件とはそういった楽しい出来事のことではないという事がおわかりだろうか。
おわかりでなくてもいいのです。
そろそろ書き始めます。
*
私は道に迷ったのである。
サンフランシスコで。
たったひとりで。
みんなは相変わらず楽しい冒険の旅に出ていたあの日、私はひとりになった。
何故か。
何故、楽しいグループ旅行の最中に、妙齢の美女が異国の地でたったひとりになる必要があるのか。
もうおわかりであろう。
おわかりでなくてもかまわないのだが、それには男が絡んでいるに決まっている。 それ以外に、なんの事情があろう。 男だ、男に違いない。
コレなんじゃないの?とオヤジが小指を立てるアレである。あ、それは女か。
みなさん。
みなさんには、忘れ難いほどに美しい時間を共有した相手というのはいますか。
背景には薔薇の花が咲き乱れ、そのむせる様な香りで失神してしまうが如きの麗しくもロマンティックな時間。
わたくしにはいる。
そんな相手が。
まるで中世ヨーロッパの宮廷の庭にそっと開いた異次元の扉から、覗き込む事のできる妖精の園。虹色に光る月明かりの中、花咲き乱れる森がある。
そんな幻夢の世界からやって来たような若者と、私は恋に落ちたのである。
7年くらい前のことだ。
しかし今回書かねば、と思ったのは、そんな甘く美しい恋の物語ではない。
今回書かねばと思った例の件とは、そんな麗しい夢の相手と、もう一度会おうと画策した結果私に訪れた、地獄の様な体験談なのである。
とにかくもう一度会おうと思った。
会おうと思った背景には、いろんな必然的な理由もあるのだが、素人にはわかりにくいであろうからここに書くのはやめておく。大竹はなんだか必然性に駆られて、別れて以来まったく連絡も取らずにいた過去の恋人に会いに行った、そう思ってくれればオッケー。
*
サンフランシスコ郊外の街に住むそのアイルランド系の若者は
失礼。
なんで私の恋の相手が若者なのか、という所に疑問を感じられる方もわずかながらおられるかもしれないので改めて説明させていただくが、つまり大変年下だということである。
で、この若者は歌い手なのであり、たまたまポテト達と私がサンフランシスコにいる間、滞在中のホテルから徒歩で行けるほどの距離の会場で、内輪向けのライブをやる、という情報を得たのである私が雇った探偵から。冗談。
それじゃストーカーですから。
ま、恐らくは未だに私に未練を持っているのかもしれない若者本人からの情報だったため、私は何も考えずに、会おう、と思ったわけです。そもそも私はこの若者の音楽の大ファンですから、関係が切れても音楽まで失うことはねえべ、とかねてから思っていた。
だから会いに行ったのです。歌を聴きに。
そんな純粋な行動のどこが、あんな恐ろしい事態を招くほどに神の逆鱗に触れたのか、未だにわけがわからないのである。
*
とにかく私はひとり、徒歩で会場に向かった。
地図は大変わかりやすく、馴染みのダウンタウンから真っ直ぐ歩いてゆけば、なんの問題も無く着くはずだった。
ところが。
賑わうダウンタウンから数ブロック歩いた辺りで、街の様相がガラリと変わったのである。
暗い。
昼間なのに、なんでこんなに暗いの。
空気が澱むがあまりに、陽の光を通さない、そんな現実、初めて見ました。
濡れた様なアスファルトの道にはゴミが溢れ、長く手入れを怠っているのであろう汚れて色褪せた軒の低い建物群が並ぶ。
その足元には無気力な目をして座り込む住人らしき人々。
服は敗れ、肌は汚れていて浅黒く、異様な集中力で私を注視する、力無く見える体に不似合いな強い目線。
しばらくそんな通りを緊張しながら歩いていくと、風景はますます混沌を極め始めた。
数人の男性が立ち上がってひとつに集まり、私を見ながらなにやら相談をし始めたので、私はなにかあった場合に駆け込めるような建物を探した。
すると一軒のホテルが目に入った。
ホテルだ。
ホテルなら大丈夫。
ホテルならきっと優しいコンセルジュがいて、お嬢様どういたしましたか、と私をかくまってくれるにちがいない。
その人は黒い髪に青い目をしたナイトで、私を命がけで守ってくれることだろう。
ところが。
よく見るとそのホテルは、通りに面した窓一面に、なにやら内側から紙が張り巡らされており、中が見えないようになっているではないか。
これは、中でこんな事やあんな事が行われているから、ポリ公に見えないようにしておこうぜ、という意味のアレではないのだろうか。
そんなところに逃げ込んでどうする。
事態は深刻さを増し、真昼間なのに何故か薄暗い陽の当たらないその街で、あまり親切そうじゃなさそうな男性数人が私を目指して歩いてくるとなれば、私は逃げねばなるまい。
しかし先方を刺激してはあれなので、私はあたかも通りを渡るだけよ、まだこのお散歩を楽しんでいるの、的な様子を装って通りをゆっくり横断し、1m程に迫ってきていたひとりから3m程の距離を確保した。
その時である。
白馬の王子様ならぬ、オレンジ色のキャブが現れたのは。
はっきり言って、そのキャブも街や男性たちと同じ位汚れていた。
しかしキャブの運転手は個室にひとり。私をつけている男性たちは5人。
それに個室に入ってしまえば後ろに回った私が有利ではないのか、たとえキャブのドライバーが悪い人だとしても。
という咄嗟の判断で私はキャブに乗り込み目的地を告げると、そのドライバーさんは大変親切な人であっという間に私を目的地に連れて行ってくれたので、チップを山ほどはずんだらなんだか涙ぐんでいた。
いや、涙ぐみたいのはこっちですよ。
命を救ってくれてありがとう。
ドライバーさんもあの街の人達と同じ位汚れているのに、心は錦だね。
するともしやあの街の男性達も、心は錦だったのだろうか。
彼らは別に、悪い目的で私を追っていたわけではなかったのかもしれない。
もしかしたら、目的地までおんぶしてあげましょうか、とか言いたかったのかもしれない。
でも後の祭りである。
それにしてもこの恐ろしい体験後、私はしばらく細かい震えが止まらなかった。
のちに調べるとそこは、サンフランシスコでも特に治安の悪いとされている、テンダーロイン地区と呼ばれている場所であることがわかった。
何故テンダーロインと呼ばれているかと言えば、そこを担当する警官はいい報酬をもらえるので、テンダーロインステーキを食べられるよ、とかいう意味だという説があるらしい。
それくらい危ない場所に私は何故か迷い混んでしまったのである。
まさに危機一髪なのであった。
*
さて、無事にコンサート会場へ着いて無事に彼氏に会ってめでたしめでたしだったかというと、めでたかったのは私だけで相手は突然の奇襲攻撃に面食らったのか、かつては冷徹な程の完璧主義者で、よく鍛錬された痩せ気味の長身に印象的なコッパーブロンドの巻き毛、そして大きく澄んだ空色の瞳で客席を優しく見下ろしながらたおやかに歌う姿は、まさに天使が宿るとも言われた程の、息を飲む様な美しく完璧なステージングを誇りとしていた彼であったはずなのにその日はすっかり調子を崩し、横笛の音程を激しく外した上に歌も音痴になっちゃって、会場から失笑を買う事態へと発展してしまったのである。
私はそれをしっかりと録音して持ち帰り、ホテルでポテト達に聞かせて馬鹿笑いしたのは言うまでもない。
そういうわけで。
あの日本当に恐ろしい思いをしたのは、私ではなく彼なのかもしれない。
自分の弁護の為に言わせてもらえば、そうされてトントンくらいいけない事を、その若者は私にしたのであると断っておこう。